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 『眠らない男ナポレオン』が2月中旬から東京宝塚劇場で上演されます。
 主演は星組の柚希礼音。
 ナポレオンがなぜ「眠らない男」と呼ばれるのか? それはこのブログの
「3時間しか眠らぬという伝説」をお読みいただければ見当がつきます。
 『眠らない男ナポレオン』はミュージカルであり、主題はナポレオンとジョ
ゼフィーヌの愛と葛藤のようです。
 ジョゼフィーヌがどんな女性であったかについては、やはりこのサイトの
「ジョゼフィーヌの死」をご覧いただければ、あらましのところお分かりにな
ることでしょう。
  
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 この「ナポレオンの時代」をホームページのかたちで公開する計画をアナウンスしたのは、たしか5月です。
 いろいろなことがあって遅れに遅れ、いまようやく 、その webサイトを立ち上げることができました。
 「夏頃には」と予告していたのに、秋も過ぎて冬になってしまったことをお詫びします。
 ブログの形式でエントリーした記事は全部で350本ほどでした。いまの段階でホームページ上でお見せできるの はその数パーセントに過ぎません。
 追い追いふやしていくつもりですので、ついでの時に覗いて見てください。
 ホームページ「物語 ナポレオンの時代」には、ここから入って行けます。

                                            2013年12月28日 (いし)

2013.09.03 悪戦苦闘中
 「ナポレオンの時代」をウェブサイト化することを、しばらく前に予告いたしました。
 その後、プロバイダーを決めましたし、ホームページ用のソフトもインストールしました。
 とはいえ、ページの作成・編集はなかなか難しく、悪戦苦闘中というところです。
 どうか、いましばらくお待ちください。 
                          (2013.9.3)
7.1819年9月、フェシュ枢機卿の選んだ医師と聖職者2名、料理人などが来島。医師はコルシカ出身の若い男アントンマルキ。この医師はナポレオンに庭仕事などで身体を動かすことを勧める。戸外での作業を数ヶ月やったのが良かったのか、いくらか体力を取り戻したナポレオンは、翌年10月、島の西南にあるダヴトン邸を随員・召使いを伴って馬車で訪問。しかし、この遠出からロングウッドに帰ったナポレオンは疲労困憊して、ベッドに崩れ落ちる。

8.その1週間後には入浴中に失神。意識を取り戻したあと、頭痛と右脇腹の痛みを訴える。いくらかでも体調が良ければ運動につとめ、晴れれば散歩。雨の日には、ビリヤード室に作らせたシーソーに乗ることもあった。が、体力はしだいに低下。しばしば寒気に襲われ、従僕のマルシャンに足のまわりを熱いタオルでくるませる。肉を食べなくなり、ポタージュ、煮こごり、ゼリーなどしか受けつけなくなった。

9.1820年4月、ナポレオンは気力をふりしぼって遺書を作成。病人のベッドはより広くて看護しやすいサロンに移された。病状がいくらか穏やかなときに、終油の秘蹟をうける。5月5日、ナポレオン死す。翌日、故人の意思に沿い、遺体の解剖がおこなわれる。執刀したのはアントンマルキで、イギリス側から複数の医師を含む10名が、フランス側から7名が立ち会った。

10.解剖報告書は死因を「硬性がん腫」としたが、これは胃潰瘍と胃がんの両方をさす当時の医学用語。肝臓をどう見るかについては、アントンマルキと立ち会ったイギリス人医師の間で意見が分かれ、報告書には言及がない。それから140年後の1961年、ナポレオンの死因に関する新見解が発表された。砒素による毒殺説である。

11.この毒殺説はスウェーデン人歯科医フォシュフーヴドによるもので、この医師はナポレオンの遺髪を入手して専門家に分析させ、多量の砒素が毛髪に含まれていることをつきとめ、つぎに少量の砒素を長い時間をかけて主君に与えうる人物を絞り込み、最終的にモントロンを犯人とした。犯行動機はブルボン家からの命令あるいは依頼によるものと推定。

12.この毒殺説は、明白に支持する者、まっこうから反対する者、一部修正を加えて賛同する者がいて、長く論争が続いた。ナポレオン研究の権威ジャン・チュラールの意見は以下の通り。毛髪は根元から引き抜かれたものでなければ、DNA 鑑定ができないので、遺髪とされるもの(切られた髪)が本物かどうかは不明。モントロンは疑わしい人物ではあるが、もっと確実な証拠がなければ、犯人と断定することはできない。

13.1840年5月(ということは、ナポレオンの没後19年目)に、7月王政政府は亡き皇帝の遺骸をセント・ヘレナ島からフランスに移送する方針を表明。遺骸護送船団が編成され、島でナポレオンと生活をともにした部下の生存者も航海に招かれる。ベルトラン、マルシャンなど7名が参加したが、モントロンは姿を見せない。

14.船団は7月にトゥーロンを出帆、セント・ヘレナ島に10月到着。ナポレオンの遺骸を発掘・回収して、11月末日にシュルブール港に帰着。葬送行進12月にパリでおこなわれた。小雪のちらつく寒空の下、大勢の見物客の見守るなかで、霊柩車に載せられたナポレオンの棺は凱旋門をくぐり、アンヴァリッドに向かう。翌日からはじまった棺の一般公開には、おびただしい訪問客がつめかけて、フランス国民の間のナポレオン熱の高さを示した。

15.没後19年にしてこれほどの大きな人気は、フランス社会に浸透していた「ナポレオン伝説」抜きには説明できない。ラス・カーズの『セント・ヘレナのメモリアル』を初めとする刊行物、演劇、絵画などさまざまなものが集合・共鳴して、「伝説」は形成された。8年後にナポレオンの甥ルイ・ナポレオンがフランス大統領になれたのも、さらに4年後には皇帝として「ナポレオン3世」を名乗ることができたのも、やはりこの伝説のおかげである。
1 1815年10月、イギリス軍艦ノーサンバランド号は、南大西洋の孤島セント・ヘレナに囚人ナポレオン、その随員と家族、召使いなど二十数名を運んだ。一行の住居として選ばれたのはロングウッドの台地に立つ一軒家だったが、手狭であるために増・改築工事がなされる。工事の期間、ナポレオンと一部の側近と召使いはブライアーズ荘の離れに仮住まいした。

2 ブライアーズ荘は東インド会社の御用商人バルコームの居宅で、島の港町ジェームズタウンとロングウッドの中間に位置している。バルコームの14歳になる娘ベッツィは陽気で物怖じしない性格でナポレオンのお気に入りになった。この仮住まいは五十余日続き、やがて訪れる冬のまえの小春日和のような日々となる。

3 12月に、ナポレオンとその部下や召使いは改装なったロングウッドの家に移転。島での一日は回想録の口述、訪問客への応対、散歩、側近やその夫人たちとの晩餐などで過ぎて行く。とはいえ、自由に行動できるのは「4マイルの境界線」の中だけ。その外側ではいたるところイギリス軍哨兵に出会う。夜間の外出は禁じられ、海上には監視船が昼夜をとわず巡回していた。

4 翌年4月、新総督ハドソン・ロウ中将が着任。この狭量で杓子定規な軍人とナポレオンとの折り合いは当初から良くないが、会見のたびごとに溝は深まり、対立はぬきさしならぬものになる。11月、側近の一人で、ナポレオンの口述を筆記していたラス・カーズが逮捕され、島から追放される。ヨーロッパに行く人間に密書を託したというのが、逮捕・追放の理由だった。

5 そのあと、口述を筆記する役をみずから買ってでたのは、随員モントロン伯爵の夫人のアルビーヌ。かの女は毎日ナポレオンの部屋にこもるようになる。アルビーヌが主君と親密な関係になると、やはり随員のグルゴー将軍が不快感を示し、かの女の夫モントロンとの関係も悪化する。やがてグルゴーは離島。ほぼ同じ時期に、もうひとりの側近チプリアーニが謎の死をとげ、ロングウッドの雰囲気はしだいに重苦しくなっていく。

6 1817年の暮れごろから、ナポレオンはときおり身体の不調を覚える。が、ロウ総督のよこすイギリス人軍医の診察は、総督への反感から、かたくなに拒否した。側近のベルトラン将軍はローマにいるフェシュ枢機卿に手紙を書き、適当な医師を選んで島に派遣してほしいと依頼。その間にもナポレオンが失神する事態が起きる。急きょ駆けつけたイギリス人船医は、慢性の肝炎と執拗な便秘が失神の原因と診断した。